五月の雨はレンヌの野にとめどなく降る

五月の雨はレンヌの野にとめどなく降る

見た番組の感想が多くなるはず。

『ファン限定』と言うのは、今一好きじゃないんですが…

祝、カージナルスのN.L.チャンピオン獲得っ!
と言う事で、ご祝儀と、醒め気味の自分に喝を入れる…イヤ、この場合は『かなりイタイ文章』なので、「反省を込めて、若き日の過ちの懺悔」的な記事を…そうそう、タイトル通り『ファン限定』と言うのは、どーも勿体付てるみたいで今一好きじゃないんですが、この場合は流石に恥ずかしいので限定的と言うか、ゲリラ的に投稿します←ホントは、その頃の自分を取り戻そう…等と言う、過去にすがる様な情けない行為なんですがね(でも、現状で『ファン限定』って1人だけじゃん!)
えー、記録によると、2004年11月24日に、当時入り浸っていた携帯のMLBサイトに投稿させて頂いた文章で…だから文中のデータは、当時のデータですので…。
しかし、読み返すと『野球術』からのパクリが目に付く…ま、言い訳は置いといて、さっさと本題に入ります。
※当時は名称等を現地表記に書いてましたが、今回はカタカナに開いてます。あと画像を追加しようと思ったけど、あえて当時のままで…



真一文字に結ばれた唇。常時掛けた眼鏡の奥の瞳を外から窺う事は出来ない。
チームの好プレー、得点、勝利・・・ベンチが沸き上がるシーンにも、彼の表情が変わる事は滅多に無い。
今回の名鑑は、トニー ラルーサ。本名アンソニー ラルーサ Jr.
彼自身決して気難しい、冷徹な監督ではない。

フロリダ州タンパで生まれた彼は、スペイン系の血を引く母の影響も有り「英語よりも先にスペイン語を話していた」と言う。
大量の中南米系選手を抱える野球界の監督にとって、第二母国語とも言うべきスペイン語をこの時点でマスターしていたのは偶然か、必然か?
1962年、当時カンザス・シティーをホームにしていたアスレチックスと契約(契約金$5万)。翌63年の5月10日には18歳と7ヶ月でメジャーデビュー。ポジションはショート。
彼の他に「18歳でショートとしてメジャーデビューを飾った」のはロビン ヨーントとA-Rodしか居らず、彼には輝ける未来が描かれていたのかも知れない。
アスレチックスを皮切りに、ブレーブスカブス→パイレーツ→ホワイト・ソックス→カージナルスと名門チームを渡り歩き、選手としての引退は1977年。
選手として14年務めあげた・・・が、メジャーリーガーとしては6年間、通算132試合、打率1割9分9厘、ホームラン無し、7打点のみの選手生活。
1年目のシーズンオフ、油断も有ったのか軽率な行動から肩を壊す。以後、肩を庇って肘を痛め、膝の故障も重なる・・・怪我との闘いに終始した選手生活。デビュー当時、本人も考えていなかったであろう選手生活。
自身の限界を思い知らされたのか、1972年シーズン終了後から地元フロリダ州法律学校へ通い始める。
5年、即ち現役引退と同時期に学位を取得する。
現役引退から時間を置かず、STLのマイナーで第二の野球人生をスタートし、79年にはシーズン途中からCWS監督就任。同年、弁護士資格をも手にする。
何故か野球界とは別の世界へ進出しそうになる時、野球人生の転機が訪れる。
ひょっとすると彼自身の野球への情熱とは別に、野球の神様が「名監督誕生」の為に転機を与え続けたのかも知れない・・・。

選手生活へ半ば見切りを付けての法律の学位取得も、野球界に限って言えば「法律の学位取得済み監督=全員殿堂入り」しており「監督としての殿堂入り」条件の切り札(?)も取得済み。(4人の内、B.リッキー,H.ジェニングス,J.ワードは監督としてと言うよりもチームフロントや選手としての獲得ですが…)
監督業としての第一期黄金期はオークランド時代。マグワイヤ、カンセコのバッシュブラザーズの存在のせいか「強打のチーム」の印象が強いが、基本的には投手力上位のチーム。
D.エッカーズリーのクローザー転向と言う話題を筆頭に、彼の片腕D.ダンカンピッチング・コーチと先発&ブルペンを整備し、彼の代名詞“ラルーサ・スペシャル”を確立。
野球界に於いて既に投手の分業制は謳われていたが、現在の「中継ぎ→エース・セットアッパー→クローザーの流れを確立したのは彼」と言われる。
更に主軸打者にもチーム打撃,高レベルの走塁を求め、ただ単に「打てば文句無いだろ?」的な態度は徹底的に排除。MLB初の40-40プレーヤー誕生に立ち会う。
現地のガイドブックの用語欄には「イニング途中での一人一殺継投」=“ラルーサ・スペシャル”と記述され、“トニー ラルーサ・ベースボール”と言うゲームがPart4まで作られる程の現代を代表する監督。
1986年の7月1日にCWSを解任されたのだが、その3週間後にはOAKの監督へ就任。
通算で2000勝を超え、2004年終了時点での2114勝は歴代6位。来期5割の81勝を達成でS.アンダーソンの2194勝を抜き、歴代3位となる(リストの上下は殿堂入りの監督だらけ)
監督の勲章とも言えるManager of the Year獲得は、1983:CWS、1988:OAK、1992:OAK、2002:STLと「指揮を執ったチームで必ず獲得」し、最多4回を記録。
ココ迄を読むとイメージ通りの「冷徹な監督」に映るかも知れないが、いつも“しかめっ面”で居る訳ではない。試合前の一時、カメラを構えるファンへ目元と口元だけをほころばせた笑顔で応え(でも遠目には“しかめっ面”に見える)試合中には、彼の視線は試合へ注がれているが、オンデックサークルへ出る前の選手達は皆、彼の元へ立ち寄りコミュニケーションを取って来る。
カージナルスが誇る主軸打者達にもその姿が必ず見られ、エンジェルス時代には問題児の烙印を押されたJ.エドモンズですら彼と談笑するシーンがよく見られる(やはりラルーサは笑ってないが…)
「彼の元でプレーしたい」と言う選手は少なく無く、エッカーズリー、マグワイヤが彼を慕いカージナルスへ移籍したと言われるのは有名な話(尤もFAではなく、トレード移籍ですが…そう言えば、田口壮のSTL決定理由も「ラルーサ監督の下で一度やってみたかった」でした)
バランスを考えたチーム作り、選手からの信頼、実績・・・やはり野球の神様の判断は正しかったのだと信じたい。
ここで「監督としての彼」とは別のエピソードも紹介したい。
OAKで指揮を執っていた1990年5月対NYY戦。ゲーム中に紛れ込んだ一匹の猫を彼が保護した。1週間後にその猫が安楽死処置を取られる事を知った彼は、妻のエレインとアニマル・レスキュー財団(ARF)を設立。
ペット動物への虐待、生命の軽視を防ぐ活動は勿論、保護されたペットの里親探し等「動物達へのケア」を目指すと同時に、高齢者や精神及び肉体的な傷跡を持つ人々へ、ペット動物を通じての「人間の心のケア」(アニマルセラピー)プログラムも実施している。

2004年N.L.チャンピオンシップ・シリーズ第7戦、ワールドシリーズ進出を決めた日、選手達を迎える彼は滅多に見せない笑顔を爆発させた。
カージナルスの指揮を執り、ポスト・シーズンへ進出しても弾き返され続けたワールド・シリーズ挑戦への切符。その獲得の瞬間。
…しかし、残りのポスト・シーズンで彼の笑顔を見る事は出来なかった…4連敗、屈辱的な敗退だった…。

2004年オフ、カージナルス一番目の注目は「ラルーサの続投問題」であった。シーズン中から彼の去就に注目が集まり、或る意味本末転倒であったが、それこそが彼の存在の大きさを示す事かも知れない。
何はともあれ、これで安心して彼の姿を来期も見る事が出来る。
そして来期もきっと、ベンチが沸き上がるシーンにも表情を変えず、次の一手に思いを巡らして居る筈。
何故なら「一つのプレー」、「一つの勝利」の向う側に有る究極の目標「ワールド・シリーズ制覇」を、共に目指す選手、スタッフ達と分かち合う為に…そして「全米一のベースボール・シティー」と謳われるセントルイスのファンへプレゼントする為に…。


~以降、当時のあとがき~
う~ん・・・長いですか?オマケにチョット美化し過ぎ?(我ながら酔ってます←酒ではなく、自分の文章に)本当は彼のお嬢さんが、その…レイプと言いますか、暴行された話とかも有るのですが、とてもじゃ無いですが、僕が消化出来る話題では無かったのでパスしました。
それと「猫の後日談」が見当たらないんですよね…。
気が付けば前回の名鑑への応募はプホルス。今回ラルーサ言う事で、あれだけ騒いでたBOSOXのネタを応募しなかった訳ですが「今後はSTL一筋に生きる!」って事の証と言いますか、その…ま、そー言う事で~す!
今回参考と言うかパクリ元は
野球術(上) 文春文庫
ベースボール・ライブラリーHP http://www.baseballlibrary.com/baseballlibrary/ballplayers/L/LaRussa_Tony.stm
AR財団HP http://www.arf.net/index.asp
でした。
と言う事で、今回はこの辺で!


以上ですね…我ながらホントにイタイ事書いてるな…って(笑)ま、それだけピュアだったのさ←はぁ?
でも自分で…えーと?約2年前か?それを読み返すと中々新鮮だったりもして、こう言うのって流石に普通の日記には書かないので、この場合は個人運営の携帯HPだったんですが、投稿させて貰ったり、今ならブログとかに書くのも悪い事じゃないよな?等と、話をはぐらかしてますか?(笑)