五月の雨はレンヌの野にとめどなく降る

五月の雨はレンヌの野にとめどなく降る

見た番組の感想が多くなるはず。

装甲騎兵ボトムズ ♯48~52(ファミリー劇場)

遂に最終回を迎える。
 
第50話『乱雲』の次回予告では
死にかけた神が呼んでいる。
全宇宙を敵にしても、我が下に来るべし。
我は与えん、無限なる力を。
我は伝えん、3000年の愉悦を。
神なる者の壮大な誘惑。
人たる者の壮絶なる決意。
いまクエントに、最後の戦いが始まる。

次回「修羅」。
全てを得るか、地獄に落ちるか。

って、期待したところで修羅の作画崩壊…まぁ、コレが最終回じゃなくて良かった…。
 
イメージ 1
さて、最後の最後のこの瞬間迄、見てるコッチもキリコに騙されてたワケだけど、ロッチナはどうやって自爆装置の事を知ったんだろう?
そんでもって、あれだけの周辺宙域を吹き飛ばした爆発から、よくキリコとフィアナを乗せた宇宙船は離脱出来たなぁ!とか…ま、どーでもイイ事だけど。
 
 
 
『神が死んでも戦争は起きた』と言う事で、キリコとフィアナはコールド・スリープに入ったんだよな?
イメージ 2
それで、いつの日か『戦争の無い世界で、2人して目覚めよう!』って事なのか?
何処かで読んだ話によると、「『PS(フィアナ)の寿命は2年で、間もなく彼女は死を迎えるハズだった』から、この行動の説明がつく」みたいな事を読んだけど、そんな後出し設定は糞喰らえと言うか、後から『外伝』と言う名のご都合作品作って、当初のストーリーとの矛盾を誤魔化す為に、後から設定を付け足すから『外伝』って嫌いなんだ(でも、『銀英伝』の外伝は、後出しじゃなく本当に『外伝』だから非難の対象にならない)。
 
「いつかこの2人が『戦争の無い世界』で目覚め、幸せに暮らしましたとさ…めでたし、めでたし」で良いんじゃ無いのか?
また、目覚めずに、永遠に2人して氷付けのまま星になってしまっても良いんじゃ無いのか?(少なくとも、新しい作品で小金を稼ぐ為に、目覚めさせられる必要は無いんじゃないのか?)
確かに作品と言うのは、作り手のモノなんだけど、『完』として物語が完了した時点で、作り手の手から離れ(著作権は残るけど)、話を作りかえる権限は無くなってるんじゃないのか?…等と、某宇宙戦艦で、散々裏切られて来た世代の人間は、そんな風に思ってみたりもする(まぁ、ファンが続編の製作を願ったんだろうな…願ったんだよな?)